伊深事典
伊深にまつわるさまざまな事がらを「名所・旧跡編」「人物編」「歴史編」「文化編」にまとめました。
(※「人物編」「歴史編」「文化編」は準備中です)
名所・旧跡編
【マップ位置 **】「伊深マップ」の横(A~H)、縦(1~10)座標でおおよその位置を示しています。
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正眼寺
正眼寺
【マップ位置 D7】
「伊深といえば正眼寺」と言われるほど有名なお寺で、山号を妙法山正眼寺と称し、禅宗の一派である臨済宗妙心寺派の専門道場、妙心寺の奥の院とも呼ばれます。
境内は杉や銀杏、しだれざくら、サルスベリなどの大木・古木に囲まれ、修行の場にふさわしい静謐な空間に包まれています。特に春の桜、初夏の公開講座、秋の開山忌、紅葉の時期には訪れる人が多くなります。
開山(かいさん=仏教用語で創始者のこと)は関山慧玄(かんざんえげん=地元伊深では「えげんさん」と呼ぶ)とされていますが、これは仏教界で師への尊崇の念をこめて実際の創始者でなく師を開山とする「勧請開山(かんじょうかいさん)」と呼ばれる扱いで、えげんさんが伊深の地へ悟後の修行に来られていたのは1330~1338年の間、僧太極唯一が正眼寺の前身である初祖山円成寺を建てたのはそれから約330年あとの1660年であることから、正眼寺とえげんさんの関係にはこうした事情があることを理解する必要があります。
江戸時代の末期、雪潭(せったん)和尚の代に正眼僧堂(現在本堂の東にある修行場)が作られ、以後、妙心寺派の修行僧(=雲水うんすい)が全国から集まる厳しい修行の寺として知られるようになりました。あまりの厳しさに「天下の鬼叢林(おにそうりん)」と呼ばれることもありました。叢林とは禅寺のことを指します。
毎年、10月12日は開山であるえげんさんの法要=開山忌(かいさんき)が行われます。昭和40年代ころまでは小学校も昼から休みとなり、参道にはういろう、綿菓子、金魚すくい、おもちゃなどの露店が何十店も並び、近隣から集まった多くの参拝者がひしめき合う一大行事でしたが、今は露店も少なくなり静かな行事となりました。
昭和の時代、後にプロ野球9連覇を成し遂げた巨人の川上哲治氏が梶浦逸外(かじうらいつがい)老師のもとへ約20年間も参禅を続けられたほか、星野仙一氏ほか多くの著名人が訪れたことでも有名になりました。
現在のご住職(地元では老師様と呼ぶ)は山川宗玄老師で、各地での講演やNHKテレビ『こころの時代』出演などを通じて、『禅のこころ』を身近なことばで伝える活動を続けておられます。
●正眼寺に関する略年表
元徳2(1330)年~暦応元(1338)年 関山慧玄 伊深の地で悟後の修行
寛永元(1624)年 江戸陽岳寺の僧、錐翁慧勤(すいおうえきん) 慧玄修行の遺跡に草庵を結ぶ
万治3(1660)年 僧、太極唯一 佐藤家を檀家として初祖山円成寺を創建
寛文9(1669)年 現在の妙法山正眼寺に改称
寛文11(1671)年 塔頭のひとつ徳光庵が完成
寛文12(1672)年 塔頭 見桃庵、大亀庵、不二庵が完成し四つの塔頭が完成
弘化4(1847)年 雪潭和尚 正眼僧堂を開創
明治34(1901)年 本堂・開山堂・庫裡などが改築落成
●関山慧玄(かんざん えげん)について
鎌倉時代末期から南北朝時代の臨済宗の僧(建治3(1277)年-正平15(1361)年)で信濃国高井郡の生まれとされます。鎌倉建長寺、京都大徳寺などで修業ののち、嘉暦4(1329)年に大燈国師のもとで悟りを開き「関山(かんざん)」の号を与えられました。このとき「慧眼」から「慧玄(えげん)」と改名。その後、後醍醐天皇に法を説くなどしていましたが、元徳2(1330)年から伊深にて身分を隠し、村人の手助けをしながら修行を続けていました。これは禅宗の世界で「悟後の修行=聖胎長養(しょうたいちょうよう)」と言われ、いったん悟りを得た者が更に悟りを深めるための修行であったのです。
一方、後醍醐天皇に皇位を譲った花園上皇は禅宗への信仰が厚く、死期の近づいた大燈国師に、「こののち私は誰を師と仰げばよいのか」と問われたところ、「関山慧玄をおいてほかにありません」と推挙されたため、上皇は当時行方の知れなかった慧玄を手を尽くして探し出し、さっそく京へ上るよう勅使を遣わされました。慧玄は初め固辞していましたが上皇の勅命とあって断り切れず、暦応元(1338)年、伊深の地をあとにして京へ上り、のちに妙心寺の開山となりました。
それまで、伊深では慧玄がそれほど偉いお坊さんだとはつゆ知らず、「えげんさ」「えげん坊」などと呼び、田畑を耕す仕事や町へのお使いを気軽に頼んでいました。えげんさんも嫌な顔ひとつせず気安く引き受けていたのです。
いよいよ京へ上るというとき、村人たちはこれまでの非礼をわび、送って行こうとするのですが、えげんさんは『おきゃれ おきゃれ』と言って帰るよう促しました。更に「せめて関(今の関市)まで」という村人たちに『ここは関や』と言って遮りました。その場所が今の伊深の西部にある関也の地名として残っています。最後、伊深から西隣の加治田へ渡る橋まで来たとき、村人とともに送りに来た牛たちが涙を流し、そこに生えていた笹の葉先を枯らしたことから「別れの涙笹」と呼ばれ、今に伝わっています。
えげんさんが伊深で過ごしたのは足かけ9年間に過ぎませんでしたが、今日まで700年近くの長きにわたって親しまれ、毎年の市民運動会では「えげん坊」の歌や踊りまで皆で演じられるということは、それほどにえげんさんが伊深の住民にとって身近な存在であることの証しにほかなりません。
なお、「無相大師」とも称されますが、これははるか後になって、明治天皇から贈られた諡号(しごう:おくりな)であり、生前にこう呼ばれていたわけではありません。
●正眼寺境内の主な建物・遺跡等(本堂・庫裡等は除く)
勅使巌(ちょくしいわ): 花園上皇の命を受けてえげんさんを探しに来られた勅使が座禅岩で修業中のえげんさんを見つけたとされる岩。参道を一段上った右手、放生池の手前にある大きな岩がこれにあたります。
放生池(ほうしょういけ): 参道を一段上がった最後の右手にある池。特に紅葉の時期はこの辺りが美しく、訪れる人の目を楽しませてくれます。
秀文義校跡地(しゅうぶんぎこうあとち): 参道を二段上がり、右へ曲がるところの左の木立のなかにあります
芥見段(あくたみだん): 雪潭和尚の代、芥見村(現岐阜市芥見)では、日照りが続き、雨乞い祈祷を正眼寺に依頼したところ、願いが叶ってたちまち降雨となり、田畑が潤ったとのこと。村人は感謝し、そのお礼に芥見から川石を運び、石段を作り寄進したところから名づけられたもので、雪潭坂とも呼ばれます。山門直下の自然石で組まれた石段がこれにあたります。
毒草窟(どくそうくつ): 明治34年の改築まで本堂であった建物で、現在は本堂西側に残されています。
しだれざくら: 本堂前にあるヤマザクラの一品種で「正眼寺のしだれざくら」として市の天然記念物に指定されています。
・昭和46年指定、推定樹齢300年(指定当時)、
観音像前庭(かんのんぞうぜんてい): 毒草窟の西側にある石庭で、モダンな庭園造りで知られる日本庭園史の研究家・重森三玲(しげもり みれい)氏によって昭和43(1968)年に作庭されました。岐阜県で三玲の作品が見られるのはここだけだそうです。
※僧堂(そうどう): 弘化4(1847)年に雪潭和尚が開創した僧堂。本堂右の大銀杏の横にあります。修行僧が座禅を組む場所です。
※了心庵(りょうしんあん): 佐藤家第二代吉次は正眼寺(円成寺)伽藍の建築にあたり敷地や用材など多くの寄進を行い、没後、遺言で本堂西の裏山に霊屋、庫裡、宝蔵を建てさせました。了心庵は庫裡に当たりますが、霊屋とともにその造作は堅牢端整で村の農民が多数動員されたため、この負担が伊深義民の原因のひとつになったとされています。
※座禅岩(ざぜんいわ): えげんさんが日夜座禅を組んで修行された岩で正眼寺の裏山にあります。
※印は修行域にあるため、入ることはできません。
【お願い】
この正眼寺は前述のとおり「修行」が目的の寺であるため、参拝の際には静かにお詣りください。参道西の駐車場に車を止めて階段を登るか、正眼短大側から来られた場合は本堂西側の車止めに止めて静かにお詣りください。拝観料は不要です。
【標柱】
標柱は市道沿いの寺標の横と、少し北へ入った常夜灯横の2か所に設置してあります。
■伊深まちづくり協議会では「えげんさん」の伊深でのくらしをまとめた絵本『えげんさん』(500円)を発行・販売しています。
・出典:「いぶかの民話」
・文: 渡辺 寛
・絵・デザイン 渡辺 崇
・題字: 山川宗玄(正眼寺住職)
▶ お問い合わせ・お申込みは伊深連絡所(📞0574-29-1395)まで。
〔参照記事〕
1 中外日報社「正眼寺開山無相大師六百五十年遠諱特集(2005.9.29)」
2 玄侑宗久「『没蹤跡』という生き方」(2009.10.24)
▲しだれざくら ▲山門付近の紅葉
▲放生池付近の紅葉 ▲大イチョウの紅葉
▲冬景 ▲冬景
▲冬景(百日紅)
▲放生池(左)と勅使巌(右) ▲芥見段
▲毒草窟 ▲観音像前庭
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龍安寺
龍安寺
【マップ位置 D7】
寺洞のいちばん奥にあり、立派な鐘楼門を有するこの寺は、昔ここにあった碧雲山永安寺という臨済宗南禅寺派の寺を引き継ぎ、延宝(1673~1681年)年間のはじめに再興されたもので、現在は正式名を碧雲山龍安寺(りょうあんじ)といい、正眼寺の四隣寺のひとつに数えられています。江戸時代に隣の卜雲寺の寺領から梵鐘が掘り出されたものの、「(前略)武儀郡揖深荘碧雲山永安禅寺鴻鐘」と銘が打ってあったためこの寺のものとわかり、今は鐘楼門に吊り下げられています。また銘には至徳元年(1384年)に当時の美濃国守護、土岐義行から寄進されたことが記されています。
梵鐘は県の重要文化財(工芸品)、鐘楼門は市の有形文化財(建造物)に指定されています。
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卜雲寺
卜雲寺
【マップ位置 D7】
寺洞という狭い地域に2つの寺があり、西側の寺を神竜山卜雲寺(ぼくうんじ)といいます。関ヶ原の合戦の翌年(1601年)に、加治田の龍福寺から分かれ、臨済宗妙心寺派の寺として創建され、初めのころは卜雲庵と呼ばれていましたが、現在は正眼寺の四隣寺のひとつに数えられています。開山は龍福寺の開山でもある大徹法源禅師とされています。その後途絶えがちのなかにも十数代の住職が受け継いでこられ、中でも今から二代前の三井大心老師は岐阜市の名刹瑞龍寺の住職として招かれたほどでした。
また、本堂の西には宗派を問わず永代にわたってご先祖を祀れるよう「嶺月観音永代供養塔」が建立されています。
なお、現本堂は平成22(2010)年に檀信徒および現住職らの総力によって開創四百年事業として全面的に改築されたものです。
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禅徳寺
禅徳寺
【マップ位置 D8】
伊深小学校の東にあるお寺で宗派は臨済宗妙心寺派、正眼寺の四隣寺のひとつです。天文(1532~)年間に大仙祖吟が数十年修行し、その後、寛文8(1668)年には龍福寺第四世一秀玄廣和尚を勧請開山(かんじょうかいさん※)として、大仙山禅徳寺となりました。“開山様のジョリヌギバ”とも称せられます。
えげんさんが京へ上られるとき、それまで大切にされていた「箱笈(はこおい=仏像を保管・運搬するための箱)と護持仏(ごじぶつ=釈迦三尊像)」をこの里に残して行かれましたが、その「箱笈と護持仏」は現在この寺の秘蔵仏として保管され、市の文化財にも指定(昭和54(1979)年)されています。
歴史上の出来事として、伊深義民から約130年後の文化8(1811)年、第九代の佐藤美濃守信顕は「為濃州加茂郡伊深村陣屋代々之代官及惣百姓先祖代々有縁無縁一切諸精霊菩提」と刻んだ石地蔵を、字十王前(旧伊深村役場庁舎前付近)に建立、更に文政7(1824)年、先祖の法要を営んだ際、村民先祖供養の名の元に禅徳寺において施餓鬼を行い、義民の霊を弔った、とあります。この石地蔵は寺へ登る参道の入口東にあり、今も絶えることなく花が供えられています。
また、字十王前には十王堂がありましたが、昭和26(1951)年、役場前周辺の整備に伴い、この寺の山門前西側に移設されました。
本尊は座像の聖観世音菩薩で、近くは富加町加治田の「清水寺(第26番)」、同じく「龍福寺(第28番)」などとともに美濃西国三十三観音霊場のひとつ(第12番)として巡礼者の信仰を集めています。
※勧請開山(かんじょうかいさん):仏教における用法として、寺院を創始した僧侶自身が、師への尊崇の念から、自らではなく師を開山とすること。
▲十王堂 ▲箱笈と護持仏
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最乗寺
最乗寺
【マップ位置 E8】
伊深には現在五つのお寺(無住の退耕院を除く)があり、人口の割に多いと言われます。このうち四つは禅宗ですが、最乗寺だけは唯一、浄土真宗本願寺派のお寺で、山名を白龍山と称します。
創建は大永6(1526)年、本願寺第九世実如の子林開によるとされています。現在の建物になったのは明治42(1909)年で、七間四面の本堂の中央部分に柱がないことが特徴となっています。また柱にはケヤキが使われています。
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星宮神社
星宮神社
【マップ位置 D7】
大洞、上切を氏子区域とする神社で創建は不明ながら最も古い棟札は1677年となっています。現在の祭神は「天思兼命(あめのおもいかねのみこと)」となっていますが、この棟札に「虚空蔵菩薩寳殿」「奉行長渓山宝生寺」と書かれていることから、この神社の西側に明治のはじめころまであった「宝生寺」が長らく管理してきた、神仏習合の神社と考えられています。
かつては境内に杉の大木がありましたが、伊勢湾台風で倒れたそうで、今は初夏にまぶしいほど咲きそろうツブラジイの明るさがみどころとなっています。
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諏訪神社
諏訪神社
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秋葉神社
秋葉神社
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賀茂神社
賀茂神社
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神明神社(下町)
神明神社
(下町)
【マップ位置 D8】
本郷のうち「下町(しもまち)」を氏子区域とする神社で創建年は不明、再興されたのが1681年とされています。祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)、天手力男命(あまのだちからおのみこと)、万幡豊秋津姫命(よろづはたとよきあきづひめのみこと)とされています。
もとは字神明(伊深小学校の約200m南)の森にあったものを移設したようですがその時期は不明とされています。
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高倉神社
高倉神社
【マップ位置 E8】
牛牧、本郷を氏子区域とする神社で、創建は1610年、祭神は「須佐之男命(すさのおのみこと)」とされています。明治時代中ごろまでは「牛頭天王(ごずてんのう)」と呼ばれ、今でもこのあたりの地名を「天王」と呼びます。
伊深で最初に村社となったため一時期は伊深全域を氏子区域とする有力な神社でした。
かつては春の祭りに馬に乗って競う『競べ馬(くらべうま)』という行事も行われていました。
神社名の石柱にあった「村社」の文字が埋められているのは、戦後、GHQの神道指令により神社の国家管理が廃止されたため、自発的に行われた措置と考えられ、こんなところにも歴史の証しが残っています。
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神明神社(糠洞)
神明神社(糠洞)
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稲荷神社
稲荷神社
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白山神社
白山神社
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中切弘法堂
中切弘法堂
【マップ位置 D6】
星宮神社西約100mのところにあるお堂で、明治の始めころまでここにあった長渓山宝生寺という真言宗のお寺の弘法堂でした。寺は神仏習合の神社・寺でしたが廃仏毀釈の時代にこのお堂だけを残して滅んでしまいました。
しかし、今でも春・秋の彼岸と冬至弘法の年3回は地元の人たちがお詣りされています。また、この寺の開祖であった「良海様」をお祀りする講が残っており、良海忌には餅なげも行われています。
一方、昭和30年代から60年代にかけては、この東に住まれていた佐野えんねさんがここで「英語塾」を開いておられ、近隣から多くの子どもたちが通ってきていました。地元民にとっては子ども時代の思い出につながる建物でもあります。
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旧伊深村役場庁舎(いぶカフェ)【国指定登録有形文化財】
旧伊深村役場庁舎
(いぶカフェ)
【国指定登録有形文化財】
【マップ位置 D8】
昭和11(1936)年に旧伊深村役場の庁舎として建てられた和洋折衷型の建物で、美濃加茂市で現存する唯一の戦前の庁舎として希少性が高く、平成28(2016)年に国の登録有形文化財に登録されたことから伊深住民の新たな活動拠点のひとつとして位置づけられました。
伊深まち協では市と協働で数回にわたる住民参加の話し合い(ワークショップ)を実施し、活用方法を議論した結果、地区外からの来訪者の窓口機能を果たしながら、地域の憩いの場である “カフェ”として活用することになり、現在は地域密着型の“いぶカフェ”として運営されています。
●略年表
昭和11(1936)年 役場庁舎竣工
〃 18(1943)年 議場棟竣工
〃 29(1954)年 合併で美濃加茂市となり伊深支所となる
〃 44(1969)年 伊深連絡所となる
〃 56(1981)年 連絡所新築に伴い伊深自治会館となる
平成26(2014)年 自治会館としての使用を中止
〃 28(2016)年 国の登録有形文化財に登録
〃 30(2018)年 復元工事完成。議場棟は廃止。カフェ「茶霞おきゃれ」運営開始
令和2(2020)年 「茶霞おきゃれ」運営終了
〃 3(2021)年 カフェ「いぶカフェ」運営開始
●文科省文化審議会への諮問資料(平成28年 岐阜県)より
: 本建物の特徴等について
・登録基準: 「1 国土の歴史的景観に寄与しているもの」
・説明(抜粋):「美濃加茂市で現存する唯一の戦前の庁舎であり、昭和初期における地方公共建築の技法を今日に伝えるものである。また、集落の中心に位置しており、旧伊深村の近代を象徴する建物である。」
【参考資料】
2012.9.29 平成24年度第1回まちづくり研修会「伊深自治会館の歴史的価値を知ろう」の講演資料
*当協議会が主催した研修会のときの資料です。
2012.9.6 伊深自治会館を描いた画について
*伊深自治会館時代に描かれた画です。
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秀文義校跡
秀文義校跡
【マップ位置 D8】
正眼寺の参道をのぼっていくと、右の放生池を過ぎたあと階段を右へ折れるあたりの左の木立のなかに、現在の伊深小学校の始まり「秀文義校(しゅうぶんぎこう)」の跡地があり、記念碑が建てられています。
秀文義校は伊深小学校の校歌にも歌われているとおり、明治6(1873)年、正眼寺の塔頭(たっちゅう)のひとつであった見桃庵(けんとうあん)の建物を使って開かれました。
そして明治36(1903)年、現在の字円照の地に移転するまでの30年間、名前はさまざま変わっても大ぜいの子どもたちがこの地で学んだのです。
なお、記念碑は昭和48(1973)年、伊深小学校開校100周年事業のひとつとして設置されたもので揮毫は梶浦逸外老師によるものです。
【参考】
①現 伊深小学校校歌 第2番
明治六年(むとせ) 見桃庵(けんとうあん)
無相大師 ゆかりの地
ここに生まれた わが学舎
秀文義校の 精神(こころ)うけ継ぎ
いや栄えゆく 伊深小学校
②旧 伊深小学校校歌 第4番
思へば明治六とせごろ
秀文義校の名によりて
ここにぞ子らの集ひしが
学びの庭のはじめかし
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伊深温泉跡
伊深温泉跡
【マップ位置 E8】
昭和7年から終戦直後までの間、天王に「伊深温泉・雅仙楼」という温泉旅館があり、バスなどで遠くは名古屋・近畿・関東からも客が訪れる繁盛ぶりでした。これは地元の実業家渡邉新一氏が字下河原田(現在のゴルフ場の南)の冷泉から約2km、鉄菅を敷設して沸かしたもので、ラジウム分を含んでいたため、皮膚病・胃腸病・痛風などにきくとして人気を博したそうです。
また、当時伊深は松茸の一大産地で秋の松茸狩りのシーズンには川浦川・高木山の岩山の風景や松茸の佃煮のみやげをめあてに団体客でにぎわったといいます。
今でも日帰り温泉は各地で人気を集めていますが、当時の伊深でこれだけの規模の温泉施設があったことは驚くばかりです。
渡辺氏は川浦川の牛牧上流にいち早く水力発電所を設置し、伊深をはじめ蜂屋・山之上などにも送電していたという実績もあり、現代の私たちが見習うべき企業家精神の持ち主であったようです。
▲伊深温泉全景
▲渡邉新一氏(撮影時 77歳)
▲当時の案内看板(左 『蓬莱仙峡 伊深温泉 雅仙樓(がせんろう)電 加治田局8番』と書いてあります)とマッチ箱 (右)
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天王用水
天王用水
【マップ位置 E8~D8】
天王用水は川浦川から牛牧入口のところで取水し、西は大洞川までの約1.3km、南は川浦川までの約1.4kmにわたって集落内を流れる用水で、伊深の農業生産を安定させてきただけでなく、生活用水としても多大の役割を果たしてきました。木曽川右岸用水が整備された現在でも「上沖」(東部)の田んぼはこの用水を利用しており、今なお現役で活躍しています。
伊深を紹介する映像や記事ではこの用水がとりあげられることが多く、伊深を特徴づける風景のひとつになっています。
なお、取水口のところで「天王用水トンネル」を開いた柴田長七の功績は『天王用水取水口』の項で触れています。
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天王用水取水口
天王用水取水口
【マップ位置 E8】
伊深沖に広がる田んぼは市内でも有数の広さで、水利は東を流れる川浦川から取っていますが、江戸時代の初め、下流の羽生村(現富加町羽生)との間で水利を巡る争いが起こり、寛文9(1669)年、「伊深村が設置した新堰は取り壊し、今後新堰を作ってはならない」との裁定がなされたため、200年以上の長きにわたって伊深村は絶えず用水不足に悩まされてきました。
明治になり、この窮状を見かねて一計を案じたのが中町生まれの柴田長七で、彼は牛牧の川岸につき出た岩山の上流からトンネルを掘り用水を取り入れる計画を立てて村民に協力を求めましたが、当時の村民は夢物語として賛同しませんでした。
そこで彼は上古井村に住む大畑市太郎氏に測量と設計を依頼し、明治22(1889)年、私財を投じて独力で工事を開始しました。工事は難航し、途中中断をはさんで約6か月かかり完成しました。このトンネルの開通により伊深西南部の水田は水不足から救われることになったため、後に村は村費47円を贈って感謝の意を表したとのことです。一説によれば彼が投じた工事費は500円以上にのぼり、当時の村の年間税収額に近かったということですから、彼の功績は偉大であったというほかありません。
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追洞(おっぽら)の池
追洞(おっぽら)の池
【マップ位置 E6】
上切地区の非常用として築堤された農業用ため池で星宮神社の東約200mのところにあります。
上切地区の下流域は特に水利条件が悪く、たびたび水不足に悩まされてきたため、窮状を見かねた当時伊深村長の井上太十郎氏が自らの土地を提供し、住民総出で築堤されたものです。今でも状況によっては使われることがあるようです。
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新谷(にたに)の池
新谷(にたに)の池
【マップ位置 E7】
永年、伊深村の村長を務めた井上太十郎氏が伊深沖の田を潤すため、住民を説得して作った農業用ため池。今ではその役割を終えたようなものですが、地元の人たちで管理が行われています。
池は標柱のあるところからS字に約300m北西に入ったところにあり、秋の紅葉はなかなかのものです。
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井上太十郎氏頌徳碑(しょうとくひ)
井上太十郎氏頌徳碑
【マップ位置 D6】
中切公民館の北西あたりに東南方向にせり出したような小山があり、ここから南側に「井上」という字があります。そして伊深に何軒かある井上姓の家もこのあたりに集中しています。この小山の東側へり市道わきに「井上太十郎氏頌徳碑(しょうとくひ)」が建っています。この碑は、伊深の有力政治家であった井上太十郎氏(明治元(1968)年-昭和24(1949)年)の功績を後世に語り継ぐため、この地に建てられたものです。
氏は明治・大正・昭和の時代を通じて延べ7回、約20年間にわたって伊深村長を務め、その間加茂郡議会議員を3期、その後昭和12年からは当時の加茂郡として初めて岐阜県議会議員にも選出され1期を務めた政治家でした。
この間、特に、道路、灌漑施設、学校などの整備に大きな指導力を発揮し、のちに伊深の幹線となる道路の整備を強力に進めたほか、上切地区の農業用水を確保するため自らの土地を提供して追洞(おっぽら)の池を建設したり、旧伊深小学校の西校舎増築などに尽力されました。
碑は氏の没後すぐ、昭和24(1949)年5月に伊深村有志250戸の寄進により建立されたものです。
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伊深義民・戦没者の記念碑
伊深義民・戦没者の記念碑
【マップ位置 C8】
正眼寺の参道右手の一段高くなったところに、記念碑群があります。向かって左から、第二次大戦の戦没者碑、日露戦争の戦没者碑、伊深義民の碑です。これらはもともと旧伊深村役場の西あたり(十王前)にあったものを昭和26年に移設(第二次大戦の戦没者碑はそのときに新設)したもので、戦没者の碑には伊深在住で戦没された方々の名前が刻んであります。
一方、「伊深義民」とは、江戸時代の中期、天和2(1682)年に伊深村百姓たちが、年貢の高率と、年々農作物の不作が続き、生活に困窮していることを理由に、年貢の減免と農民の救済策を領主の佐藤家に訴えるため、二回にわたって江戸屋敷に出向いたものの、百姓たちが納得できる救済策がとられなかったことから更に幕府へ直訴、ついに百姓32名が打ち首、追放の刑にあったという伊深の歴史上特筆すべき悲しい事件です。
時代は違っても郷土のために犠牲となった方々への鎮魂の思いをこめ、地元各班が持ち回りでこのまわりの清掃を行っています。
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義民供養の石地蔵
義民供養の石地蔵
【マップ位置 D8】
伊深義民の事件については「記念碑群」の項で触れていますが、このときの佐藤家の領主は第三代の佐藤勘右衛門続成(信次)で、百姓たちの訴えをほとんど聞き入れず、冷たく対応したことが記録に残っています。
この事件から約130年後の文化8(1811)年、第九代の佐藤美濃守信顕は「為濃州加茂郡伊深村陣屋代々之代官及惣百姓先祖代々有縁無縁一切諸精霊菩提」と刻んだ石地蔵(石地蔵高二尺八寸)を、字十王前(現在の旧伊深村役場前付近)に建立、更に文政7(1824)年、先祖の法要を営んだ際、村民先祖供養の名の元に禅徳寺において施餓鬼を行い、義民の霊を弔った、とあります。
当時、ご法度とされていた幕府への直訴は、困窮した農民を救済するための命がけの行動であったことをようやく領主側も認め、実に一世紀以上経ってからではありますが弔いの姿勢を示したことは、この悲しい事件の締めくくりとして、わずかながらも救いにつながる行為であったといえるかもしれません。今でもこの地蔵様には絶えることなくお花が手向けられています。
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関也の道標・碑群
関也の道標・碑群
【マップ位置 C8】
関也にある火の見やぐらの西約100mの大洞川沿いの三叉路にあり、伊深で最古の年代の入った道しるべとされています。
「右かぶち 地蔵菩薩 明和八年(一七七一) 左つぼ七月」と刻まれています。「かぶち」は神渕、「つぼ」は津保(現関市津保川流域地域)のことを指しており、東西の交通の要であったと思われます。
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六部の墓
六部の墓
【マップ位置 C8】
別所へ入って右の洞の奥にこの墓はあります。「六部」とは聞き慣れないことばですが、背に仏像を入れた厨子(ずし)を背負い、諸国霊場を巡礼する行脚僧(あんぎゃそう)のことだそうです。あるときこの地を訪れた六部の僧が行き倒れとなり、地元の人たちが手厚く葬ったのがこの墓だそうで、地元の人たちの墓の一画に今でもその墓が残されています。
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村井長門守の墓
村井長門守の墓
【マップ位置 B7】
現在伊深には「村井」姓の家が十数軒ありますが、寺に残された位牌から、織田信長に仕えた武将、村井貞勝(長門守)の末裔との説があり、数十年前までは一族そろって法要も行われていたそうです。その長門守を祀る墓が、別所の奥の少洞という洞の手前西の小山の中に建てられています。
もとはこの下を通る里道の脇に墓標が祀られていましたが、数十年前に現在の場所に移設されました。
400年以上も前の「本能寺の変」が何か身近に感じられる逸話です。
村井貞勝(長門守)(?~1582)
安土桃山時代の武将。近江出身。織田信長に仕えた役人として筆頭格。信長が上洛してからは京都の民政に携わった。1573年からは京都所司代の要職にあり、1575年長門守に任ぜられた。本能寺の変のとき、信長の嫡子信忠に殉じ二条御所で討死した。
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大洞の岩観音
大洞の岩観音
【マップ位置 D5】
伊深北部の山間部に細長く伸びる洞を文字どおり「大洞」と呼んでいますが、「大洞の岩観音」はその集落の入口にあります。今は単に山から突き出た岩山の一部にすぎませんが、人が歩いて往来していた時代には、おそらく通行の分岐点として重要な場所であったと思われます。岩観音はこの岩山の一部で洞窟のようになったところを祀ったもので、昔その洞穴に入った鶏がここから約1.5km南東にある牛牧のガンセキの洞穴から出てきたので、この洞どうしがつながっているという言い伝えがありますが確認はされていません。
岩観音と呼ばれる洞窟は標柱から10mほど上がったところにあります。
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星宮神社のじょりぬぎ場
星宮神社のじょりぬぎ場
【マップ位置 D6】
「じょりぬぎ場」とは、『神社へ神様が降臨されるときに足を洗われる場所(井戸)』で「神社の西方200mほどのところにある」と伊深の歴史誌上説明されています。そして伊深で「じょりぬぎ場」とされているのは、諏訪神社とこの星宮神社の2か所です。神社に付随するものであれば神社の所有であってもおかしくありませんが、ここは字仲田の民地の田んぼのなかにあります。
この「じょりぬぎ場」のいわれは他にあまり例がなく、伊深独自のものかもしれません。
諏訪神社の方は耕地整理の関係で泉がなくなっていますが、こちらは昔のままの姿でひっそりと時を過ごしています。
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お諏訪様のじょりぬぎ場
お諏訪様のじょりぬぎ場
【マップ位置 C7】
南岡にある諏訪神社の西300mほどのところに、土地改良された田んぼの一部を小さく囲んだ一画があり、ここが「諏訪神社のじょりぬぎ場」として、昭和53年に発刊された美濃加茂市史民俗編でも写真付きで紹介されています。昔は清水が湧き出ていたそうですが今は埋められています。文章では「むかし諏訪の神さまが、はじめてここへ来られたとき、この清水に馬が踏み外して落馬されたという。そのため諏訪神社の氏子は、井戸を掘っても水が出ないという」(佐野一彦「伊深の伝説」)と解説されています。その真偽のほどはともかく、「じょりぬぎ場」としては「星宮神社」とともに2か所が今に至るまで語り継がれてきています。
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龍宮の渕
龍宮の渕
【マップ位置 F9】
川浦川の野地原橋から下流300mほどに、西に直角以上に折れ曲がるところがあり、ここは昔から「竜宮の渕」と呼ばれ、子どもが近づくことを禁止されてきた場所です。この渕には人寄りのときに使う膳や椀を乙姫様から貸してもらえるという、いわゆる『椀貸し伝説』があります。この伝説は日本の各地に似たような話が伝わっており、最後に何らかの理由で貸してもらえなくなるというところが共通しています。
この渕の場合、乙姫様の姿を一目見ようとした若い男が、膳と椀を返したあと、立ち去らずに乙姫様の姿をのぞき見たから、という伝説になっています。『いぶかの民話』では『体がすうーと吸い込まれていってまうようで、おそがかった。』とされていますが、この危険な渕に子供たちが近づかないように配慮した大人たちの気持ちがこの伝説に結びついたのかもしれません。
(※標柱は上流の野地原橋のたもとにあります)
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牛牧の桜並木
牛牧の桜並木
【マップ位置 F7~G7】
今では市を代表する桜の名所のひとつとなりましたが、もともとは地元の有志が半世紀ほど前から植え始められ、その後地元の子どもたちも少しずつ植樹し今のような立派な並木に育ってきたものです。長さ約800mの河畔に約100本のソメイヨシノが咲き並ぶ姿はそれだけでみごとなものですが、ここの見どころは桜だけでなく、切り立った岩山との対比やヤマザクラ・新緑へと続く移り変わりの妙にもあると言えます。
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岩山の絶景・幻の滝
岩山の絶景・
幻の滝
【マップ位置 F8・F7・G7】
伊深を訪れる人で、この風景が好き、という人が多いのが、高木山裏の岩山の風景です。ほぼ直角に近い角度でそそり立つ絶壁が数百mにわたって続く岩山は、ときに山水画のような風景を見せてくれます。春には桜のほかヒカゲツツジが咲き競うほか、年に数回、大雨のあとだけに見られるのが『幻の滝』で、切り立った岩山を垂直に流れ落ちる糸のような滝がところどころに見られます。
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別れの涙笹
別れの涙笹
【マップ位置 C9】
今から約700年近くの昔、「えげんさん」が京へ上られるとき、いよいよ伊深から加治田へと川を渡るところで別れを惜しんだのは村人だけではありませんでした。えげんさんとともに働いた牛も別れを惜しんで涙を流し、その涙が道端の笹の葉先を白く枯らしたと言い伝えられており、「別れの涙笹」と呼ばれています。えげんさんにまつわるいくつかの逸話のなかで唯一「おとぎ話」的な話ですが、それほどにえげんさんを慕う気持ちが強かったことが伝わってくる話でもあります。
この笹は正式には「おかめ笹」という種類で、今でもこの場所に生えているほか、川の土手や山すそなど伊深のあちこちで見ることができます。
伊深では昔からこの笹を食器や野菜を干す編みかごとして利用してきた伝統があり、丈夫なため重宝に使われてきましたが、今では利用の場が減ってしまいました。